3月の三連休中日となる土曜の午後、23年振りに”朧大橋”を訪れた。
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 高良大社を御井諏訪線をまっすぐ進み、耳納平駐車場から北川内草野線を右折し、一路、朧大橋を目指す。朧大橋にたどり着くまでの4.3キロの間、すれ違った車は僅かに1台。カーブが続く危険な山道を、対向車を気にすることなく運転することが出来た。四半世紀近く振りに見る”朧大橋”は、実に、威風堂々と佇んでいた。

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 橋の名を刻まれた石は、その年月を感じさせないものだった。

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 23年前、橋を渡った先には、廃校となった小学校だけがあった。その状況をして、“行き先のない橋”との駄文を書いた。

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 令和となった今、研修センターとして活用されている模様だ。

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 しかし、そこに人影はない・・・。

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 以前は、橋の向こう側に道路は無かった。しかし、今では、道路がある。法面もバッチリ仕上げられている。されど、車が通る気配は一向にない。備えあれば憂いなし。いつ、車が殺到しても万全の備えだ。

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 車が通る気配がないのは、橋の上とて同じだ。この橋の上では、車の通行を気に掛けることなく、周辺の大自然の景色を楽しむことが出来る。名だたる橋で、このような橋がどれだけあるだろうか。昨今、“朧大橋”は自殺の名所としても知られ、近隣の耳納大橋とともに、防犯カメラが設置されているとも聞く。ある種の看取り対策にも卒がない。

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 続いて、周辺にある「ふるさとわらべ館」を訪れた。

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 快晴に恵まれた三連休の中日とあってか、親子連れが、グラススキーに遊具にと、思い思いの休日を満喫していた。

決して、大盛況と言えるものではなかったが、確かに、人はいた。実に、43名もの人がいた。土日のファミレスには及ばないかもしれないが、親子併せて一クラス分ほどの集客効果は確実にあった。

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 以前は気づかなかったが、敷地内には、使われている様子のない土俵があった。全国的に見て、番付が高い有名力士の地元などに、土俵が作られることは侭ある。念のため調べてみたが、上陽町出身の著名な力士を見つけることは出来なかった。

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 帰路、往路とは異なり、耳納大橋を渡り、湯ノ原合川線を通り久留米市を目指す。

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 久留米市に入る瞬間は、道路標識を見ずとも解る。それまで、十分にすれ違えた道幅が一気に狭くなるからだ。

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 当然、路面の舗装の状況も変わる。

“政治は道路”、選挙区が変われば道路の路面(整備状況)が異なるのは、我がふるさとでは一般常識だ。

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 久留米市内に進むにつれ、順調に道は細くなる。道路が立派な八女市の人口は約6万人、道路が貧層な久留米市は約30万人。朧大橋が出来たのは平成の大合併前。当時の上陽町の人口は約4千人だった。

人口比による単純計算で、今現在の行政区分で5分の1、竣工当時の行政区分で75分の1の経済力(財政力)の自治体の方が、道路がキチンと整備されているのは、ここ筑後地方では常識だ。なぜならば、輩出している政治家の格(チカラ)が違うからだ。

設計費と建築費を併せて約40億円の税金を投じて作られた”朧大橋”。当初の「八女郡部と久留米都市圏とを結ぶ」との大義名分は達成された。現地に辿り着くまでに、1台もの車とすれ違い、周辺施設に43名もの親子づれを集客したことにより、「計画通り、見事に達成された」というのがこの国の判断に他ならない。

23年前、「行き先のない橋」という駄文を書いた。実りある行き先がどこなのか・・・、無能な僕には解らなかったからだ。それから四半世紀が経ち、取り敢えず、行き止まりは解消され、橋の先に道路は出来た。工事途中の状況を以て、否定的な見解を安易に述べたことを率直に詫びなければならない。

当時、上陽町役場の”朧大橋”のページにリンクを貼ったら、「アクセスが激増した」と町役場からクレームが入った。若気の至りか、「リンクを削除する気はない。気に食わないのなら裁判でもしてくれ」と一蹴。「本質的に、町役場のホームページのアクセスが増えることは悪いことか?」と問い返したら、返答は無かった。

その後、サンデープロジェクト、その他の報道番組でこの橋が取り上げられ、当時の野党幹部が挙って現地を訪れた。国会でも「ムダな公共事業」と話題になった。全国区の話題に昇華させることには成功した。錚々たる政治家に、メディアにと、少しは中山間地の集客にも貢献出来た。

そして、”朧大橋”もまた、橋梁・鋼構造工学での優れた業績に対して与えられる土木学会賞のひとつ、「土木学会田中賞」を手にすることに成功した。橋を作るための橋、見るための橋としての完成度の高さは国内随一と言えよう。

“朧大橋”は、1990年(平成2年)の過疎地域活性化特別措置法制定により、県が実施できる市町村道の整備事業(県過疎代行事業)の範囲が広がったことに伴い計画。通った人を見たことも聞いたこともない地に建設されるに至った。

橋の開通後も、同法により、福岡県が下横山東西線の建設事業を続け、2.6キロほど幅員拡張行われた。10年ほど前の話だ。しかし、それ以降の工事の進展はない。

“朧大橋”が社会問題化した当時、麻生渡県知事(故人)は、定例会見で「中山間地域をよくしようとの意気込みでつくった」と、“朧大橋”の有用性を述べた。為政者の“意気込み”だけで税金が投じられたら、納税者はたまったものではない。

消滅可能性自治体に指定された田舎で暮らす者として、町の良し悪しは、人口の多い少ないだけではないと思っている。政治や行政、経済その他の指標に関わらず、田舎には田舎の、人が少ないなりの、良さがあるのだ。

竣工当初、約4,000人いた旧上陽町の人口は、令和8年3月末現在、2,228人まで減った。実に、44.3%もの人口減少だ。加速度的に進む中山間地域の少子高齢化の波で、人口が半減した以上に、“朧大橋”がこの地にもたらした恩恵が“きっと”あるのだと思っている。

僕には、大所高所の見地も、数値には表れ辛いクリエイティブな素地もない。そんな凡人の僕は、その“恩恵”とやら・・・を推し量ることが出来ない。ただただ、自身の無能さを恥じるばかりだ。

既に、福岡県を離れ20年近くの歳月が経つ。最早、地元民ではない僕に、この事業の成否を論じる資格も能力もない。無論、私立文系卒程度の(そう高くもない)僕の日本語読解力では、“朧大橋”関連の政治家や識者の発言の妥当性や整合性、あるいは、事業の実効性や有用性を理解することは出来ない。

一つだけ言えることは、しがない納税者の端くれとして、自身が収めた税金の使い道としては釈然としない。それ以上に、火がついては消え、火がついては消える、この国の“忘却の民”そのものが理解出来ずにいる。

この国が、これから先もこのようなことを続けていくのか・・・、その結末を見届けることなく、海外転身を考える身。もし、死ぬ間際・・・に、この国に戻ることがあるとしたら、「あらゆる事業は有用であった」(税金は、適時適切に使われた)と思える国に生まれ変わっていて欲しいものだ。心から、そう願いたい。


ご参考 2003年8月2日「行き先のない橋