恋木神社_01 母方のふるさとは、父のふるさと(福岡県八女市室岡)から車で走ること10数分、“水田天満宮”の近くの筑後市水田中町(みずたなかまち)。幼少の頃、夏休みと言えば、祖母(故人)の家に行くのが恒例であった。


水田_01 水田天満宮の駐車場に車を停め祖母の納骨堂へ。私たちは、「納骨堂」と呼んでいるこの場所は、正式には「寺」なのだろう。正直、あまり深く考えたことはない。通常、帰省の際は、福岡空港から、一路、昨日紹介した八女市室岡の納骨堂に拠り、この場所に。そして、久留米市の実家に戻るというのがお決まりのコースだ。

水田_02 この水田中町には、久留米市の水天宮にも祀られている“真木和泉守”が謫居した“山梔窩”(さんしか=くちなしのや)がある。祖母の家の目と鼻の先にあるこの建物を“さんしか”と呼ぶことは知っていた。今回、ここで、近隣の青年の教育を行い、討幕運動家を育てていたことを改めて知った。

水田_03 この説明書きに、母方の姓である「渕上」という人物が登場するが、これが親戚(ご先祖様)と関係するかどうかは解らない。いずれにしても、地元“久留米”、あるいは、自身のルーツを知るにつけ、“幕末”や“尊王攘夷”などの言葉との繋がりや歴史を知ることとなり、ちょっとした観光気分の帰省であった。

以下、「山梔窩」の現地説明看板を転載。

 この山梔窩は、討幕運動家・真木和泉守保臣(1813〜64)が、嘉永5年(1852)から文久2年(1862)まで、9年9ヶ月にわたって謫居したところです。

 和泉守は、久留米水天宮の第22代神官で、久留米藩の藩政改革を試みました。しかし、守旧派重役らの反対により失敗し、水田天満宮の神官である実弟の大鳥居理兵衛方に謫居を命じられました。

 その時の住居が山梔窩です。山梔窩は「クチナシノヤ」(山梔=クチナシ、窩=小屋)とも読み、東西3間、南北2間半の茅葺平屋建で、4畳半と4畳の小さな家です。和泉守は、この山梔窩で近郷の青年たちを集めて教育しました。その中から渕上郁太郎・謙三兄弟や古賀簡ニ・水田謙次など、幕末に活躍した倒幕運動化が育っています。

 また、平野国臣・清川八郎・宮部鼎蔵などが訪れて、勤王討幕運動をおこすことを話し合いました。

 文久二年(1862)2月16日、和泉守は山梔窩から脱出を決行し、薩摩藩にむけ水田を後にしました。その後、元治元年(1864)禁門の変(蛤御門の変)に参戦し、敗れて京都の天王山で同志16名とともに自刃しました。享年52歳でした。

 和泉守は、勤王倒幕の理論実践の先駆的な指導者でした。この山梔窩は明治維新の原動力となった人々を生み出した場所です。

※謫居(たっきょ):罰をうけてひきこもっていること。とがめをうけて遠い所に流されていること