



以下、「山梔窩」の現地説明看板を転載。
この山梔窩は、討幕運動家・真木和泉守保臣(1813〜64)が、嘉永5年(1852)から文久2年(1862)まで、9年9ヶ月にわたって謫居したところです。
和泉守は、久留米水天宮の第22代神官で、久留米藩の藩政改革を試みました。しかし、守旧派重役らの反対により失敗し、水田天満宮の神官である実弟の大鳥居理兵衛方に謫居を命じられました。
その時の住居が山梔窩です。山梔窩は「クチナシノヤ」(山梔=クチナシ、窩=小屋)とも読み、東西3間、南北2間半の茅葺平屋建で、4畳半と4畳の小さな家です。和泉守は、この山梔窩で近郷の青年たちを集めて教育しました。その中から渕上郁太郎・謙三兄弟や古賀簡ニ・水田謙次など、幕末に活躍した倒幕運動化が育っています。
また、平野国臣・清川八郎・宮部鼎蔵などが訪れて、勤王討幕運動をおこすことを話し合いました。
文久二年(1862)2月16日、和泉守は山梔窩から脱出を決行し、薩摩藩にむけ水田を後にしました。その後、元治元年(1864)禁門の変(蛤御門の変)に参戦し、敗れて京都の天王山で同志16名とともに自刃しました。享年52歳でした。
和泉守は、勤王倒幕の理論実践の先駆的な指導者でした。この山梔窩は明治維新の原動力となった人々を生み出した場所です。
※謫居(たっきょ):罰をうけてひきこもっていること。とがめをうけて遠い所に流されていること