事実に基づき物事を判断するとき、「総論と各論」「全体と部分」というモノの見方、あるいは、「賛成と反対」という相対立するモノの見方のバランスの取り方と、あるべき姿の実現(ゴールを実現する戦略)に向けた「段階的な戦術の描き方」は非常に難しいものです。

 何故ならば、マクロレベルで言えば、検討の最中にも事象は絶えず変化し、尚且つ、近年、マクロ的な要素の変化が早くなっているからです。ミクロレベルにみても、当事者である各々の立場の人たちが、従来の「価値観を変える」ことを迫られる、つまり、より、俗的に言うならば、(そのこと自体は誤った受け止め方ではありますが)“自己否定をされる”、あるいは、“これまでの人生を否定される”と感情的に物事を理解しようとする側面があるからです。
 と同時に、後者について少し掘り下げれば、「外部環境が変わるので価値観が変わる」ということになるのですが、とりわけ日本人は、総じて“変化”に対する適応力が低いことが、課題解決をより困難なモノにしているように思います。

 また、「価値観を変える」ことは、本質的には、自身の「意識を変革する」という主観的な抽象的要素が必要になります。個別議論のレベルで言うならば、他社の意見をある程度受け入れることであり、それらのことを実現するためには、双方がパラダイムチェンジを行い、相手の立場に立ち、違いを認識することがポイントとなります。

 政治や行政レベルで考えると、改善活動を行う以前に、極めて、感情的、且つ、主観的な要素で決定される「良い」という状態を定量化(数量化)し辛い事象を、最低限、民主主義の意思決定レベルでのコンセンサスが得られた上であるべき姿(ゴールを)掲げる必要がありますが、昨今の政治課題や社会問題を省みると、万事が万事、事実の検証を蔑ろにした感情的、あるいは、情緒的な議論に終始していることに違和感を感じます。

 少なくとも、半分の人たちが「良い」と思うゴールを実現するためには、多少の受け止め方の違いは兎も角としても、冷静に、自分自身の目で、事実を見極めることが大前提になります。

 また、当たり前のことではありますが、物事を改善していくためには、事実に基づいた「課題点の抽出」と「原因の究明」という“仮説と検証”を繰り返すことであり、都度、設定されたゴールへの道のりと照らし合わせて現在の位置を把握し、“仮説・検証”の軌道修正を行なう必要があります。

 つまり、物事、即ち、政治課題や社会問題を絶えず良くしていくためには、地道な改善活動を続けることでしかなく、“CHANGE”を叫ぶヒーローの登場を期待することでも、スケープゴートになる“戦犯”を探し糾弾することでもないのです。

 そして、何より重要なことは、全ての人たちがそのことを自身の課題だと受け止めること。即ち、まずは、私たちが“当事者である”との意識を持たなければ何も変わらない。全てのことに優先して変えるべきことは、“私たち自身”なのではないでしょうか。

 どうか、一人でも多くの方に、改善の当事者であることを理解して頂き、キムタク扮するヒーローの登場を期待するのではなく、どのような些細なことでも、我がことと感じ、考え、行動していく。そういう意識を持った人が少しでも増えるよう。まずは、自分自身がそう行動していきたいと考えています。

 
 “CHANGE”と叫んで変えるべきは、“私たち自身”。

 私たち一人一人が“変わる”ことが、“CHANGE”ではないでしょうか?