昨今の政界を見渡すと、特に、与野党を問わず、ベテラン議員に遠慮をし、率直な発言を行なわない若手議員の存在、あるいは、良かれ悪しかれ“素人”である新鮮さを期待された若手政治家の“永田町の住人化”には、甚だ、残念に思い、大いに失望しています。

 政治に、国民との距離感を縮める不断の努力する義務があるとするならば、あるいは、国民主権の民主主義を確立するという普遍の要素があるとするならば、ある一面においては、民主政治の放棄を意味します。ですから、各人が各人の目と耳で感じたこと、あるいは、統計的データや断片的な事実で感じたこととの間に違和感を感じるならば、最低限、そのことを声にする義務があるのではないでしょうか。

 日々、メディアには、断片を切り出した“一部の事実”に基づく感情的なストーリーが横行しています。政治家が、世論を気にするあまりに、聞きかじったメディアの情報や、官僚が都合よく作ったデータだけに基づいて議論をしている現状は、本当に、正しいのでしょうか?

 例えば、メディアには、一部の事象にだけスポットを当て、数人の人の声を聞いただけで、事実と思い込む特性があります。確かに、一点に話題を集中させることは、ムードを作り上げ、問題を顕在化させる上では重要な手法です。現実的には、メディアという商業的要素として“特集”を組む、即ち、企画としては効果的なことなのだと思います。

 しかし、そのことは、10年後、あるいは、20年後に検証が行なわれない限り、単に、特定の時間軸における部分最適化の話をしているだけに過ぎないのです。と同時に、副次的には、議論を矮小化させるという要素があります。

 あらゆる課題の原因が、国内の“人口増”という前提に則った制度に基づくものであり、尚且つ、国際的に複雑に利害関係が入り組み変化のスピードが速い状況においては、部分最適化の意味合いの比重が各段に落ちてきているのではないかと感じています。

 と同時に、部分最適化の結果は、全体最適化することとイコールな関係ではないため、だからこそ、“事実の検証”を繰り返す重要性が高まっているのではないかと考えています。

 今日ほど、様々な角度から、“事実を検証する”ことの重要性が増している時代は無いにも関わらず、二大政党制を良しとし、“選挙制度改革”を行なった結果として、政治家もメディアも、そして、国民も、「YES」or「NO」の単純な二元論に陥っていることに危機感を抱いています。

 とりわけ、複雑化した時代においては、“事実”や“現実”は、単純に「YES」or「NO」の二択で割り切れる無いはずなのです。今こそ、様々な角度から、“事実”を見極めることが重要になるのです。そして、そのことは、全ての“改善の第一歩”に他ならないのです。