現実を正しく認識する、あるいは、現実を正しく啓蒙していくという点においては、ある種の“象徴的な存在”は必要だと思います。日産の“ゴーン改革”などは、その最たる例でしょう。しかしながら、そのような場合でさえ、日産を蘇らせた要因の数々は、各現場社員が各現場社員の担当範囲において、日々、地道な改善活動を地味に繰り返してきたからに他ならないのでしょうか。
 私たち人間には、“ヒーローの登場で何かが変わる”という他力本願的な無意識な思いがあります。とりわけ、日本人は、政治に限らずビジネスシーンにおいてもそのような意識が強いように感じます。現在、自身が身を置いているベンチャー領域(小さな組織)、あるいは、経営的に苦境に立った組織においては、その傾向が更に強くなります。

 しかし、一つだけ言えることは、一人のヒーローの存在は、象徴的な存在や啓蒙活動の精神的支柱という点、あるいは、意思決定の責任という点においては重要な要素であるものの、その存在そのものは、独力で手に負える範囲を超えた問題解決の場合には、所詮、一人の人間の存在でしかないのです。

 そして、重要なことは、何かしらの意思決定が、感情的な問題ではなく「事実」に基づいて行なわれることであり、その意思決定に賛同(共感)した現場の一人一人が、その意思決定に基づいて、地道な行動を続けることなのです。

 今の時代が“CHANGE”を声高に叫ぶヒーローを求めているとするならば、それは、私たち一人一人の気持ちの何処かしらに“受け手”になっている潜在意識がある証だと思います。

 もし、私たちが、このままヒーローの登場を待ち望むのであれば、そのことは、単に、リーダーの首を挿げ替えるだけの茶番劇が繰り返されることを意味するか、あるいは、混迷を極める時代においては、民主主義の存在そのものを危うくする独裁者的なリーダーの存在を容認する危険性があることを肝に銘じるべきです。

 ヒーローの登場を待ち望んでも、そのことだけでは何も変わらない。

 今、全ての人たちが、受動的な存在、即ち、外野で評論する傍観者ではなく、当事者になり、各々の考え方に基づき行動することが重要な時期にきているのです。つまり、全ての物事を改善するのは“現場”なのです。