yoake 今、横浜駅近くのjonathan'sで原稿用紙に向かっています。店内には、始発を待つ若者のグループ、早朝登山に向かう人たちの集まり、酔い冷ましの人、そして受験勉強、あるいは学校の定期試験に挑むであろう学生の姿と、実に様々な面々が夜明けを待っています。
 政治という世界に身をおいて約10年。昨年から、民間企業に身を置きつつも、絶えず、頭の中では、国のあるべき姿、政治のあるべき姿を追い求めています。店内にこだまする笑い声を聞きながら、ふと、政治って、日常の生活においては、国や社会のことを無意識にするためにあるのではと感じたりもします。全ての国民が政治に抑圧的に関心がある社会、あるいは、全ての国民が政治に恣意的に関心がない社会、そのいずれの社会も不健全。
 メディアでは、決して良くは言われない無党派層。もしかしたら、政治に関心が無くなる社会の実現のために、政治はあるのかもしれない。そして、そんな理想に近づけるために、政治に不満がある人の声を一つ一つ丁寧に聞き、改善していく。そして、一つの不満が改善されると、また、新らたな不満に向き合っていく。本来は、そんな地道な作業の連続こそが、政治の姿なのかもしれません。
 私がよく取り上げる「小鮮を烹るがごとし」という言葉。その意味を考えるとき、あたかもリセットボタンを押すように、バラ色の未来が待ち受けているような“改革”は、やはりバーチャルなのではないでしょうか。メディアに目を向けると、善悪二元論的な勧善懲悪話が踊ります。しかし、社会とは、その善悪双方に背負うものと大義があり、その程よい妥協点が現実である。そんな風に思います。最近、全ての事象をYES or NOで捉える傾向があります。そんな日常に慣れる中で、どこか、日本人独特のバランス感覚を失いつつある。私は、そのことを危惧してなりません。 
〜夜明け前のファミレスにて〜

ご参考 2003年11月5日のご挨拶「小鮮を烹るがごとし