延☆嘉隆(のぶ☆よしたか)のストリートスマート宣言!

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日本にとっての農業

 水・木曜日と農業関係の方々と飲む機会があった。日記のタイトルの「がばせからしか」の下から入ることが出来る過去の日記時代からのお付き合いである。私の選挙では、皆さんの立場を考えると、色々とご心配をおかけした方々だ。その席で、色々な方々とストレートなやり取りをした。
 私は、昨今、農業には色々な直面する課題があると思うが、今、しなければならないことは、日本という国にとって、自国の農業をどう位置付けるのかということの再認識をすることであると思う。
 例えば、減反政策を行ってきた現状と、今後の米生産のあり方の(つまり、減退廃止)矛盾や、全国、津々浦々で見受けられる、後継者(次世代の就農)問題解決のための議論。これらを議論する時、日本という国家に取って農業という産業をどう位置付けるのかは、不可避な問題であると思う。
 私は、農業という産業を、二つの視点で捉えるべきであると思う。一つは、果樹や商品作物等の、比較的自由経済の論理で考えることが可能である作物に対しては、「経済としての農業という位置付け」があっていいと思う。もう一つは、米麦等の主食(品)作物については、/糧安全保障(国防)、⊃の安全、そして、9馘敲歔(環境や治水)という観点から、広意義での「安全という位置付け」があるべきだと思う。
 勿論、地域によって事情も違うし、作付けの規模に応じての直面する課題が違う。しかし、国際社会の中での日本を考える時、国が農業政策を議論する場合、今までのような、行政依存型農業から自立型農業へ移行していく必要がある。そこで、キーになるのは、国や自治体の補助がどうあるかが主なのではなく、生産者の視点からだけではなく、消費者の視点で考え、流通→消費まで踏まえて初めて生産があるということである。
 生産者も作ったら、農協がどうかしてくれるという発想から、徐々に、直売へと移行している現状がある。逆に言えば、このことは、海外の農産物の農薬の問題や、産地偽装の問題が発覚した時の消費者の購買行動を見ても、今後の流れになってくると思う。 
 小中学校の社会の時間で学んだように、農家には、専業農家と兼業農家がある。その中でも、兼業農家は、農業による収入が農業以外の収入よりも多い第一種兼業農家と、農業以外の収入のほうが多い第二種兼業農家とがある。
 農業の全てを、経済性・効率性だけで議論する人は、日本も海外(例えばアメリカ)のように大規模化をしていくべきで、農家は淘汰されなければならないと主張する。この主張は、作付け面積あたりのコスト、農機具等の減価償却、就農者一人あたりの生産性を考えると、正しい一面もある。しかし、この主張をする人には、「安全としての位置付け」の視点がない。
 私は、前述の安全の視点からの農業という見方で、農業を再検討する必要があると思う。日本が、ある程度、国家として自給していかなければならない作物が何で、どの程度の自給率があればいいのかを決めなければならない。
 私は、近い将来、意外に、(効率性がないという点で)批判対象になることが多い第二種兼業農家のライフスタイルが見直される時が来るのではないかと思う。
 だらだらと書いてしまったが、「日本にとって農業とは何か?」このことを精査することが急務だと考える。

Back to the roots.

 昨年は、私にとりまして、まさに「変革の一年」でありました。職場を移り、ふるさと久留米からの始動。期せずして、突然の古賀正浩先生のご逝去に伴う、衆議院福岡6区補欠選挙への出馬、落選。そして、選挙終了後に選挙違反の指摘を受け、補選後2ヶ月余りを経った今、全ては司法的なご判断に委ねられております。

 昨年冒頭来、私は、一年間の課題として「生きる」ということを掲げて参りました。20代最後の年を過ごす身としては、あまりに「生きる」ということを痛切に感じた年でありました。と同時に、直面する現実の中で、絶えず胸の中に「誰(何)のための政治か?」という素朴な疑問を抱き続けておりました。

 永田町・霞ヶ関という社会から孤立した限られた人たちの手によって行われる政治。そして、その制度疲労した行財政システムの限界を垣間見るなか、あるべき政治の理想像を希求することは、「政治は誰のためのものなのか?」と自問自答し続ける毎日でもありました。

 私が政治に対する志を抱きましたのは、私自身が好きであり、私が生きて生活するこの筑後というふるさとが好きであり、何よりも、この日本という国が好きであるということにあります。そして、私が愛すべき日本という国が、もう一度「希望」を持てる社会にするために、今までのシステムを把握した上、生活者の視点で現実社会と現在の政治システムとの乖離を埋めていき、社会環境の変化に適応していくための啓蒙を行い、説明責任を果たすということは、極めてシンプルな動機からであり、ごく自然な行動であります。

 社会における不安を一つづつ丁寧に取り除いていくことが、日本という国家が自立し、生活者の安全、且つ、安心な生活を保証し、もう一度、希望が持てる国家になるための処方箋だと思います。そのことを念頭におきながら、本年は、「原点に戻る」ということをテーマを掲げて取り組んで参ります。

決して、生涯忘れることのないクリスマスイブ

 20代最後のクリスマスイブを無機質な警察署のロビーで迎えた。聖なる夜のディナーは、コンビニで買ったクリームパンと鮭おにぎり。乾いた喉を、自販機の80円の紙コップのコーヒーで潤す。続きを読む

減反政策の現状

 私が選挙期間中訴えてきたことの一つ、減反政策について2日の西日本新聞に記事が出ていたので議論の現状を紹介したい。
 今、食糧庁は、国主導による生産調整(減反)の廃止を想定した各種補助措置案を検討している。今月1日に食糧庁長官の私的諮問機関「生産調整に関する研究会」にその具体的施策を提示した。しかし、生産者団体の委員が強く反対している。
 今まで、食糧庁が2010年度までに市場重視のコメづくりを目指して4つの段階的な改革ステップ案を提示していた。それに加えて今回は、減反廃止までの暫定措置として\源債汗斡力交付金の創設各ステップ案に応じた産地づくり推進交付金を創設という中身を示した。
 それで論点は何かというと、全中は、目標年次の設定はおかしい、白紙に戻すべきだと主張。一方、諮問機関の座長は、6月の時点で年次設定はOKしたじゃないかと主張。
 減反問題に拘わらずありがちな論点のずれ。選挙を通して減反の田んぼを見た実感で言うと、実際の生産者の気持ちとの乖離がないか少し心配。
 ともあれ29日までには、同研究会は改革案を決定する予定。明日は、三連休の最終日。行楽等でお出かけの際に、少し気にして筑後の田園風景を眺めて見るのはいかがですか?
《参考》米の減反政策の解説

JAにじ青年部との意見交換会

 今日は、夕方の駅頭を休み、JAにじ青年部との意見交換会を行った。農業関係としては、先日の大橋で開催したのに続き二度目だ。一般的に農業と言うと、米麦を想像することが多いが、6区の農業は、生産している作物の種類は実に豊富だ。
 前回もそうだったのだが、今回も、「日本と言う国が農業という産業を必要としているのか?」という不安感に関しての指摘があった。現在の農業政策は、その点で、解り辛いところがあるのかもしれないと思う。
 産業としての農業と、国土保全・環境・食料安全保障という観点からの農業とを大別して考えていかなければならないという考え方も必要なのかもしれない。

今、政治が何をすべきか?

919fce34.jpg 私は、最近、街を見て歩いている。街といっても、いわゆる商店街や繁華街だけではなく、稲穂が実る田んぼ、山間の村々、新しく作られた橋や道路等々、色々なところを見て回っているのだが、こうして実際に街を歩いてみると、新聞等の記事では感じることの出来なかった「そこで生きる人々の独特の生活の臭い」を肌で感じることが出来る。そして、今の自分にとって必要なことは、「この国やこの街がおかれている現状を認識するときのアンテナの感度を高めるために街を歩き続けることだ」と思うようになった。新聞で読んだ、浮羽郡の棚田オーナー制なども今後見てみたい。


 永田町という偏屈な街にいると、永田町で起きることが世の中の全てであると錯覚してしまいそうになることがある。しかし、永田町と距離を置いた今、思うのだが、実際に有権者が永田町の住人に求めているのは、「有権者の生活感を永田町の住人が共有すること」なのではないだろうか。地域には地域に応じた様々な問題があるのである。

 今、私たちに必要なことは、まず自分たちがおかれている現状を認識すること、そして「30年後のこの街のために、今、一人一人が何をなすべきか?」の議論を継続し、動機づけを行い、行動する、この連続性であると思う。この連続性こそが、新しいこの街を彩る何かになるのだと思う。

gayoushi 先日、このHPが1万ヒットを迎えた祈念に『延☆嘉隆がゆく!』という企画をはじめた。人々の声を肌で感じるために私自身が街に出て人々と対話をする。この人々との対話の繰り返しが、この国とふるさとに責任を果たすことに繋がると信じての企画である。そして、この企画を通して、この国らしさ、この街らしさを再認識し、30年後に責任を持てる政策を考えていきたいと思っている。

meijidouri 筑後地方は、筑後川がもたらす自然の恵みに充ち溢れている。かつてこの街で、久留米絣が産まれ、軍隊があったのでゴム産業が栄えた。久留米から産まれた「ブリヂストン」は世界の「ブリヂストン」へと成長し、最近では久留米で誕生した「梅の花」が全国進出を続けている。このような素晴らしい文化や企業を産み出してきた筑後地方らしさ、自分たちらしさを見つめなおしながら世界のことを考え、30年後の希望を実現していきたい。

 その可能性がこの街には「ある」。


 社会学者としてしられるマックス・ヴェーバーは、その著書『職業としての政治』を次のような言葉で締めくくっている。少し長いが引用する。

maxw 『政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。しかし、これをなしうる人は指導者でなければならない。いや、指導者であるだけでなく、―はなはだ素朴な意味での―英雄でなければならない。そして指導者や英雄でない場合でも、人はどんな希望の挫折にもめげない堅い意志でいますぐ武装する必要がある。そうでないと、いま、可能なことの貫徹もできないであろう。自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が―自分の立場からみて―どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても「デンノッホ(それにもかかわらず!)」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「ベルーフ(天職)」を持つ。』

古賀正浩先生のご逝去の報に接し謹んでお悔やみ申し上げます。

 古賀正浩先生のご逝去の報に接し謹んでお悔やみ申し上げます。

 古賀先生は、私の母校でもあります明善高校の大先輩でありました。政治家を志した時分から、いつの日には先輩のようにと、ずっと私の目標の政治家でした。東京で秘書として過ごした時代には、東京明善会では、気さくに声をかけて頂いたことを、ついこの間のように覚えております。古賀先生の突然の訃報に、今はただお悔やみを申し上げるばかりです。

 私も、いつの日にか、ふるさとを愛された先生のような政治家になれるよう、先生のご遺志を受け継いでいけますよう誠心誠意、努力して参ります。

 先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

『小泉純一郎という夢』 ◆ 訴_のある熱帯夜の日に見た夢〜

c45ef7f4.jpg  今から、1年2ヶ月前に『小泉純一郎という夢』というタイトルの日記を書いた。私は、その日記を「挑戦者小泉純一郎に、駆け引きや計算は似合わない。」という言葉で締めくくった。小泉純一郎が総理大臣になって、約1年と4ヶ月。徐々に改革の成果を求める声が出始めている。

 その小泉首相、メディアからの情報だけで判断すれば、党内にポスト小泉の具体的な選択肢がなく、一方で野党第一党の民主党が代表選挙を控え足並みが乱れているともあり、今後の政権運営は一先ず磐石であるということが言える。

 しかし、10月末に実施される補欠選挙での劣勢が伝えられ、また、有事関連法案等の重要法案が継続審議になったこと等、不安材料の存在も否定できない。

 これは私の思い過ごなのかもしれないが、今年のお盆は政治の話題が少なかったように思う。昨年、世間を賑わせた靖国参拝問題にしても、前回のような政治問題にはならず、淡々と過ぎ去っていった感がある。

logo 私の拙い永田町経験の勘で言うと、静か過ぎる休みの後は何かが起こる。正月にせよお盆にせよ、休みの期間には何かが起こるときの仕込みが行われることがある。
 もしも私が小泉純一郎だったら、あえて今、何かをしかけるような気がする。それは何故か?答えは簡単である。誰もが「このままいく」と思っているからである。つまり、アクションを起こした時のインパクト。意外性である。

 気になって、ここ最近の新聞の総理の一日を隈なく見た。それらしきことは何も書いていない。単に、私の思い過ごしなのだろうか?

 民主党の代表選挙にしても、様々な名前が取り沙汰されているが、鳩山代表の再選を確実視する声もある。(余談だが、個人的には、若手の候補者に期待をしている。)仮に、鳩山代表が再任された場合の幹事長は誰なのだろうか?この幹事長ポストが、将来起こりうる政局の際には重要な要素になる。

 もし、私が小泉純一郎だったら、盆休みに仕込みをして、民主党の代表選挙の行方と、大方の布陣が見えてきた段階で調理に取り掛かる。つまり9月末。さしずめ国会冒頭と言ったところではないだろうか。
 しかし、付き合いのある政治記者の何人かに話を聞いても、そんな動きは一切ないらしい。今、私は福岡にいて、永田町の空気を肌で感じていないので確かめる手段はない。

 一方、自民党という政党の凄さは、その地方組織の充実度こそにある。それゆえ、衆議院議員(各選挙区支部長)は、選挙における選挙区内の地方議員への依存度が極めて高い。勿論、個人差はある。

 来年4月には統一地方選挙も控えている。統一地方選挙後の当選議員は、国政選挙における動き(選挙活動)が良くないと指摘する人もいる。理由は簡単、あと4年間保証されているから。

 くどいようだが、私が小泉純一郎だったら、統一地方選挙の前に伝家の宝刀を抜く。今なら、全政党が次の候補者を全てリストアップしている訳ではないので、選挙後の選択肢、つまりカードの組み合わせが多いからだ。

 また、これは実際に選挙をする側にならないと感覚として理解できないことだが、いくら永田町で何かが胎動し初めても(政局)、永田町でプレーをする議員の選挙区レベルでの整合性・合理性がないと、意外に議員という生き物はアクションを起こさない。
 その良い事例が加藤政局。森前首相の不信任案採決の日に取った行動とその後の宏池会分裂の時に取った行動を見れば一目瞭然。これまた、理由は簡単。後援会幹部と選挙区内有力地方議員の支部長(衆議院議員)に対する声の大きさ、つまり選挙への影響力である。

 今日は、何度も言う。もし、私が小泉純一郎だったら、『今(盆休み)の内に将来連携を取れそうな党内勢力の限られた人にに完オフで根回しをして、民主党の代表選挙の流れを見極めつつ、秘密裏に事務レベルで先方と交渉を進める。そして、9月20日前後に再度、党内の限られた人と意見集約をして、週内の民主党執行部新体勢への動きを見て最終決断。』

 ただ、私が思い描けない最大の問題がある。『対立軸』、つまり各政党内ですら意見の集約が困難で、国民が自分のこと(実生活)としてリアリティを持ち、世論が二分されるような法案である。この対立軸という最大の要素がない限り、私の、一切の根拠がない大胆予測も無意味である。

 いいかげんなことばかりを書いたが、毎朝、新聞を読む限り、今のところ、私が大胆予想する政局への布石が打たれた痕跡は一切ない。しかし、私が小泉純一郎だったら仕掛ける。その理由は、実は、私が長々と綴った各政党のパワーバランスではない。

 小泉純一郎が変人だからである。私も変人だと言われることがある。だからこそ思う。変人が凡人になったら存在価値がない。つまり、小泉純一郎という商品の賞味期限切れ、政治家としての死を意味するからである。
 
 私は、自由民主党という政党が大好きだ。何よりも、戦後政治を責任を持って担ってきたことの責任感とプライド、そして、全ての価値観を一方的に否定しない懐の広さと柔軟性がある。

 ただし全てが良いとは言わない。自民党というシステムとして制度疲労も多々起こし、変えなればならない体質もある。だからこそ、あの時(総裁選)に、自民党員だけではなく、国民全体が見た『小泉純一郎という夢』をもう一度だけ見せて欲しい。

 のぶは、小泉純一郎という男を信じている。
 挑戦者 小泉純一郎に「妥協」の二文字は似合わない。
 『変人』、小泉純一郎は変える人であって欲しい。
 
 私は、『小泉純一郎という夢』を最後まで諦めない。

maruboshi1※お断り
このHPでの私の発言は、私が所属する組織・団体と一切関係がございません。詳しくは、トップページ再下段のポリシーをご一読ください。また、この文章は、具体的な事象・根拠に一切基づいておりません。いわば、20代の一国民である私が、地球温暖化のせいか、例年より暑い、福岡の夏の夜に見た夢のようなものです。一種の空想としてご理解賜れば幸いです。

「私は、フクオカというリゾート地に住んでいる。」と、ふと思う。2002年夏。

313b996e.jpg ふるさと久留米の地より暑中お見舞い申し上げます。猛烈に暑い日が続いておりますがいかがお過ごしでしょうか?
 
 私は、今日、29回目の誕生日を迎えることができました。今まで私が出会った全ての方々と、何よりも、わががまな私に生命を与えてくれた両親に心より感謝します。
 
 福岡に戻り1ヵ月半が過ぎ、手探りながらも新しい職場にも慣れ、毎日、汗だくになりながら福岡の街を駆けずり回っています。永田町を離れ、人々の生活に密着しながら政治のニュースを見ていると、ふと、自分がつい最近までそこにいたことを嘘のように感じる瞬間があります。私が直接体験したあの加藤政局、そして、4月の辞任劇。今では、そのことさえも真夏の夜の夢であったかのように感じることさえあります。

 それは何故か?

maruboshi 私は、永田町と国民との距離感。生活感覚のヅレだと思います。だからこそ私は、国政に限らず地方政治においても、政治と有権者の溝を埋めるような仕事がしたい。今回、転職するにあたっては、来年4月の統一地方選挙での出馬を勧める声も頂戴いたしました。実際、私自身、そのことを考えた時期もありました。しかし、今は、そのことは考えていません。政治に対する欲求を抑えています。正確に言うと、自分なりの選挙区と言う地域における「代表者(代弁者)」としての役割と、その地域(国)の30〜50年先に「責任」の持つという視点でのビジョン、そして、その多くは有権者に何らかの負担を強いるであろう政策の「説明責任」のあり方を模索しています。

 私は、その答えは街にあると思います。そこで人が活きている街にあると思います。今は、ただ、自分なりの答えにたどり着くまで、汗だくになって街を駆けずり廻りたいと思っています。

 色々と書きましたが、福岡は、本当に世界一の場所です。都会的な街並みの中に自然があふれ、活気に充ち、食い物が美味い! そして、この街に生きている人たちの鼓動が伝わってきます。

 福岡にお越しの際は、是非ともご連絡下さい。

福岡の地からの始動を宣言

 常日頃から、私のHP『のぶ☆よしたか.com』をご覧頂いておりますことを心より御礼申し上げます。 
 
 本年の1月の国税の加藤事務所への強制捜査、3月の東京地検特捜部・国税の合同捜査以降、数多くの激励のメッセージ、また、ご忠告を賜りました。私自身、初めての経験で、何が真実で、何を信じていいのかすら解らなくなったこともございました。そういった状況のなか、頂戴したメールの全てにお応えする時間も、また、精神的にも余裕がなく、お気遣い頂いた皆様方に多大なるご心配をおかけしましたことを、この場を借りまして改めましてお詫び申し上げます。 
 
 山崎拓事務所に入所してからおよそ2ヶ月あまりが過ぎました。6月中旬にふるさと福岡に戻り、ようやく自分の生活ペースがつかめてきました。最近は専ら、山崎拓の秘書として福岡の街を駆け回っております。元来、私は、福岡市と約40キロ離れた久留米市の出身でございますため、福岡市に特に土地勘がある訳でもございません。しかし、ようやく目的地までたどり着くことが出来るようにまでなりました。
 
 丸9年にわたり政治の世界に身を置いていましたが、選挙区を廻るという経験はゼロでした。そこで私が再認識したこと、それは、ごくごく当り前のことですが、有権者がいて初めて政治家が存在するということです。政治家は、自分が選出される選挙区の代弁者(代表者)です。そのことが時として、地元への利益誘導型の政治になってきたのでしょう。
 
 戦後50年、確かに自民党というシステムが機能してきた部分もあります。しかし、社会が、日本が置かれている状況が大きく変化し、そのシステムが徐々に機能低下してきました。そこで国民は、小泉純一郎という最後の夢を託しました。小泉改革の成果には、賛否両論ございます。個人的には、全ての改革の成果を求めるのは時期尚早だと考えます。

 政治家の秘書としてではなく、20代の一国民として今の政治家に求めること。それは、私たちの世代、私たちの子供の世代に『借金』という莫大なツケを残さないで欲しいということ。将来の社会に責任を持って政治を行って欲しいということ。

 有権者は着実に、パーティー会場でビール片手に握手をするだけの政治家を選ばなくなってきています。今、こうして永田町を離れて、生まれ育った福岡の地で、「今、政治が何をすべきか」ということを皆さんと一緒に考えていきたいと思っております。

 以上、本日より、福岡の地からの始動を宣言いたします

衆議院議員 山崎拓 事務所入所のご報告

前回のホームページなどでのご報告で加藤紘一事務所退職についてご報告をさせて頂きましたが、今回、私の今後につきまして決まりましたので、皆様にご報告させて頂きます。

まず、加藤紘一事務所退職に際し、皆様方にご心配をおかけ致しましたことをお詫び申し上げますとともに、心温かい激励のお言葉を多数頂戴致しましたことに心より御礼を申し上げます。

 加藤の自民党離党以降、私の今後の身の振り方につきましては、加藤に委ねておりましたが、この度、加藤の命により、衆議院議員 山崎拓 事務所にお世話になることが正式に決まりましたので、ここにご報告させて頂きます。

 今後は、6月中旬まで 「 近未来政治研究会 」 、6月下旬以降は「 山崎拓 福岡事務所 」 に籍をおき、山崎拓先生のもと、この国の 『 先 』 を見据えながら政治の勉強をして参りたいと思っております。

 生まれ育ったふるさと 『 福岡 』 からの再出発です。政治家を志した原点に立ち返り、心耳をすまし、政治道に精進して参りたいと思っております。

 今後とも、皆様のご指導ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。

加藤紘一事務所退職のご報告

 この度、4月30日をもちまして、前衆議院議員 加藤紘一事務所を退職致しました。私の在職中、公私に渡りお世話になりました皆様にこの場をお借りしてご報告させて頂きますとともに、今までの皆様の御厚情に心より御礼を申し上げます。

 1993年4月、古賀誠先生のご紹介で加藤に出会って以来9年、加藤の書生・秘書として加藤のもとで過ごし、政治の世界を勉強させて頂きました。長いようで短い9年ではございましたが、加藤紘一という政治家の、最もダイナミックな時期をともに過ごせたと思っております。

 私は「この国のあるべき姿」を語る時の加藤が大好きでした。政治家としてだけではなく、人としても好きでした。そして、4月8日の参考人招致の席上、「私はこの国が心配です。」と述べた加藤を見たとき、感無量でございました。

 勿論、今回の事務所に関する件を肯定しているわけではございません。私自身、今年の1月以降、秘書として、政治の世界を志す20代の一国民として、様々に悩み、考え、今も心の整理が出来ておりません。また、司法当局によるご判断も下されていない状況ですので、大変勝手ではございますがこの件に関する発言は暫く控えさせて頂こうと思っております。申し訳ございませんが、この点につき、ご了承下さいますようお願い申し上げます。

 ただ、退職して永田町から離れた今、自分自身を今一度見つめ直し、世の中というものをあらためて勉強することにより、今回の件についても私なりの答えを見いだせればと思っております。そして、福岡の皆様、日本全国の皆様に、私の言葉に耳を傾けて頂くために、何を考え主張し、その実現のために如何に行動していくか、そのことについても答えを出して参りたいと思っております。

 尚、今後の私の身の振り方につきましては、加藤に委ねております。加藤と私は、今は議員と秘書という関係ではございませんが、加藤は私にとって政治の世界での師であり、また9年間お世話になった恩人です。その加藤の恩に報いるためにも今後も人としての道だけは踏み外さぬよう歩んで参りたいと思い、私の身の振り方について加藤に委ねている次第です。現時点では皆様にご報告できる内容はございませんが、結論が出次第、早急に皆様にご報告させて頂きます。

 最後になりましたが、未熟な私を今まで支えて下さいました多くの皆様にお会いできましたことに感謝し、皆様に心より御礼を申し上げます。

農業政策におけるインセンティブ

 昨日に引き続き、週末に地元久留米に帰って感じたことを書きたいと思います。
 久留米の農家を廻っていて、とある方とのこんなやりとりがありました。
延:この国の農業政策をどう思われますか?
A:出来るだけ、何もしないで欲しい。政治家や行政が(農業を)解ったふりをしないで欲しい。今の制度は、一所懸命やった人が評価される制度ではない。
 実際の話には前後があって、一つのやりとりだけでは解り辛い部分もあるかとは思うのですが、私は、「なるほどなぁ〜」と考えさせられるものがありました。
 経歴の最後にも書いたのですが、私の専門はマネジメント(経営学)です。マネジメントする際に気をつけるのは、インセンティブとかモチベーションという言葉だと思います。
 しかし、国の政策のいくつにこの概念が適応されているのでしょうか?
 私は、現場レベルで言えば、ほとんど無いのではと思います。農業をやるにしても、工業をやるにしても、ITビジネスにしても、仕事をするのは誰でもない人間です。その人間が、頑張れる、やる気をだせる環境を整備するのがトップにたつ人の仕事です。
 転じて、農業について考えてみると、農業は誰がやっているのでしょうか?
 それは、各農家です。
 しかしながら、農業は、国の政策と密接に関わっている部分が多いのが現状です。努力している農家と、そうでない農家、一概にこの基準での線引きは出来ないと思います。もしかしたら、努力できない環境要因があるのかも知れない。
 食生活は、生きる上で最も重要なことでしょう。国としての農業政策を考えるとするならば、需給調整の名のもとに、作らないことを奨励するよりも、市場原理を踏まえた上で、どうすれば、農家の皆さんが努力した分だけ結果がだせる環境をアレンジするか、国として本当に役に立つ最小限のサポートのあり方は何なのか、今、そのことを議論する時期にきているのではという思いを持ちました。
 私は、「久留米の○○は美味いね!」そういわれる作物のブランディングをすることが久留米らしさ、農業を久留米でする意味を創っていくのだと思う。
 農家に対して多くの予算を付けることだけが農業政策だと思っている政治家がいるとするならばそれは間違いだと思う。今後は、農業に限らず、様々な分野で、『努力した人が評価される、やりがいのあるシステム(ルール)作りは何であるのか』このことにこだわって政治というものを考えていきたいと思う。
 今、この国全体にインセンティブが必要である。

久留米で何がとれるの?

 6月9日(土)〜10日(日)と地元久留米に帰省しました。今回の帰省の目的は、地元の農業を一から見るためです。
 先月の中旬に帰省した時、JRに乗って何気なく窓の外を見ていたら、鳥栖を過ぎて久留米に入るあたりで、フッと我に返りました。というのも、あたり一面に麦が植えてあるのです。子供の頃から、慣れ親しんだ景色です。東京に出て9年目、その何気ない景色すら、新鮮に感じました。
 私は、加藤紘一の秘書をしています。加藤紘一という議員は、農業政策のプロです。そんな関係もあり、日頃から、農業関係の方とのお付き合いも頻繁ですし、私自身、それなりに知識があるつもりでした。しかし、それは、山形(庄内)についてです。
 冒頭の話に戻ると、筑後地方は、米と麦の二毛作をやっているところが多いのです。冷静に考えれば、当前の話ですが、急に、もっと筑後地方の農業を知りたくなったのです。そんなこともあり今回、お世話になている方にアレンジをお願いして色々と見せてもらうことになりました。
1.まず最初にお伺いしたのは、宮の陣の畜産農家です。現地に着くや否や、私は、驚きました。もの凄い数の牛がいるのです。テレビとかで見る、外国の景色のように、たくさんの牛がいます。お伺いしてみると、1200頭あまりいるとのこと。お恥ずかしい限りですが、久留米に住んでいて、こんなにたくさんの牛がいることを知りませんでした。(次の日にお肉を頂きました。最高に美味しかったです。)
2.次にお伺いしたのが、ビニールハウスで胡瓜を作っている農家です。初めてではないけれどもビニールハウスの中に入ったら、思っていたよりも暑いのに驚きました。ハウスの中は、37度、日が照っているともっと暑くなるそうです。高速道路からハウスを見るよりも、中は大きく、長さが100メートルあるそうです。知りませんでした。
3.次は、サラダ菜を専門に作っている農家です。日頃、スーパーでサラダ菜を見る機会は多々あれど、現実に、植えてあるのを見るのは初めてです。色々とお話をお伺いしてサラダ菜はこうやって出来るのかということを自分なりに理解しました。
4.最後は、果樹農家です。この季節は、イチゴと桃。桃を頂きましたが、改めて「これが桃の味か」ということを発見しました。美味しかったです。ここでは、産地直送をしている現場を見せて頂いたのが印象的でした。
 4ヶ所廻ってみて、共通のことに気付きました。それは、作っているモノについての話をする時の、自信に満ちたお顔と、印象的な笑顔です。
安心の出来るものを食べたい。美味しいものを食べたい。そう思う人は多いでしょう。今回、お伺いしたところは、作った人の顔が見える、そんな所でした。

※ 尚、田植えは、梅雨に入り、数日雨が降ってからだそうです。(また、改めて見に行きます。)

延嘉隆(のぶ・よしたか)の職務経歴書

 通常、社会人の自己紹介は、ビジネスキャリアについての経歴を意味しますので、順を追ってご紹介させて頂きます。"労働"という観点で語ると、人生で最初の労働は、中学2~3年生の頃だったと思います。当時、ろくに学校にも行かず、地元にある電子機器メーカーの工場で、流行っていたゲーム機器の基盤に部品をはめ込む製造ラインの仕事をしました。その仕事では、テスターを使って、電流や電圧などをチェックする検品作業を覚えたり、後には、製造物を搬出する業務にシフトが変わりました。

 次の仕事は、高校に入ってからはじめた工事現場の仕事です。この仕事では、色んな現場に行く機会がありました。橋梁工事、国道の補修工事、建築現場の仕事、造園の仕事...。この仕事では、肉体労働で汗をかいた後の昼飯が美味いことや、コンクリートの動詞が"うつ"であること、バイブロプレート(小型転圧機)で道路を舗装する経験もさせて頂きました。時には、宅地開発にともない、等高線を見ながら、山を切り崩して出た土砂の量を算出して、運搬するダンプを手配するという貴重な経験もさせて頂きました。この頃入った現場で、最も、印象に残っているのは、日雇いの現場で入ったブリヂストンの工場の地下タンクの解体の現場です。仕事の帰りに、一緒に働いた労働者の方が、車のなかで、「これで、娘に学校の上履きを買ってあげられる・・・」と呟いていた情景を強烈に覚えています。その他にも、イベントの会場設営、弁当工場の深夜のアルバイト、真夜中の違法なポスター貼り、まぁ~、色んなことをしていました。

 その後、高校二年生の初秋、原チャリで事故を起こし怪我。ちなみに、前歯は指歯、今でも、私の顔が少し赤かったり、薄っすらと傷があるのは、この時、顔の皮が大体、はがれてフランケンシュタインみたいになったからです。当時の偏差値は29。一応、新学校だったので校内偏差値はもう少し低くなります。5教科800点満点の模試の合計点は60点。記号回答で全部同じ記号を選ぶと、だいたい、これくらいの点数になります。勿論、学校からは、「自主退学をしてくれ」と言われてました。

 事故を契機に、「これ以上、親に迷惑をかけられない...」と思い始め、勉強をし始めました。一浪をするものの、どうにか大学に入り無事に卒業。運輸省港湾局出身の井口典夫教授のゼミで、“物流二法”。平ていに言えば、トラック業界の規制緩和について研究していました。


 この頃、私が影響を受けた本は、小沢一郎氏の「日本改造計画」と、P.F.ドラッカーの「ポスト資本主義社会」。後に、政治業界に進むこととなりますが、実は、興味を抱いていたのは後者。今でも、社会学的経営学というモノの見方が、私のモノの見方の根底にあるように思います。

 大学に入り、当時、YKKとして頭角を現していた加藤紘一議員の(今で言う)インターンのようなことをはじめ、大学2年の頃から、青山の自宅マンションに書生として住み込むこととなりました。ちなみに、加藤紘一議員を紹介したのは、同じ地元の古賀誠議員、物流業界的に言うならば、元運輸大臣、トラック議員連盟会長といったところでしょうか。私自身、既に、永田町を離れて7年が経ちますが、今でも、当時、ご一緒させて頂いた政治家の方々や、財界の方々、学識経験者の方々、評論家の方々などからご連絡を頂戴します。本当に、有難い限りです。

 秘書時代は、本当に、色々な経験をさせて頂きました。政府与党会議に臨席、総理官邸に同行、海外要人との会談、財界との会談に同席、派閥議員の選挙での地方滞在、土日は、幹事長に随行して日本全国を廻る日々...。まさに、当時は、この国の権力の中枢で、日本の意思決定の現場を体現することができました。ちなみに、秘書時代にお会いした印象に残っている3賢人は全員女性。一人は、李香蘭こと山口淑子先生、もう一人は、作家の塩野七生先生、もう一名は、知る人ぞ知る辻トシ子先生です。

 後に、〝加藤の乱”で権力の座から落ちるプロセス、全国をお詫び行脚する日々、あるいは、“東京地検特捜部の捜査にともなう特捜部通い”など、政治業界にいても経験できない稀な経験をさせて頂けたと思います。かなり、精神的にしんどくて、自身の弱さを痛感したのもこの時期でした・・・。

 加藤議員の議員辞職にともない、当時、自民党幹事長だった山崎拓議員の事務所に転籍。ここでは、自ら希望して、地元の秘書をさせて頂くことに。それにともない、学生時代から住んでいた東京を離れて福岡に帰郷。山崎議員の秘書になってから、自身のチャレンジを思い立つようになり辞職。たまたま、辞職したその晩、地元の議員の先生が亡くなり、時を経ずして、落下傘候補に対する地元候補として、地元の経済人の皆様に担がれることに。急遽、衆議院議員の補欠選挙に出馬することになり、結果、落選。ここまでは、想定していたのですが、陣営スタッフの選挙違反が指摘され、最年少で、"連座制"の適用を受けることに。正直、これは、想定の範囲外でした。ちなみに、私の名前がwikiに出てくるキーワードは「連座制」。国政選挙レベルでは、未だに、連座制適用最年少記録を守っている(?)ようで、不甲斐無く思います。2002年は、年に二度も、検察庁から呼び出しを受けるという、人生で、二度と経験したくないようなハードな一年でした。余談ながら、現在、ビジネスで苦労を苦労と感じないのも、この時以下の状況はないとプラスに思えるからです。

 当初は、地元にいて、何かしらの選挙を目指そうと考えていましたが、一部に、「民間経験が無い」といったご指摘もあったので、たまたま、中学校の同級生が送ってきた手紙に、「このコンサルティング会社、税金のこと詳しいみたいだよ」というメッセージとともに同封されていた求人広告を見て応募。翌週、上京して、会社説明会に出て面接を受けて入社。この会社では、全国の会計事務所を廻る仕事や、不動産の証券化、あるいは、組成したベンチャーファンドに関することなど、主に、会計や金融の視点を培う勉強をさせて頂きました。民間の厳しさを叩きこまれたのは、北信越地区の著名な税理士の先生のもとを赴いた時に、泣きたくなるくらいボコボコにされたことです。真冬でしたが、帰りは、コートを着る気力もなく、寒さも感じないほどでした。これ以降、物凄く、勉強をするようになりました。無論、出張にかこつけて、さぼったりもしていましたが・・・。(笑)

 次に、入社したのが、SCM改革や業務改革を手がける独立系のコンサルティング会社。この会社に入ったのは、“SCM”という聞き慣れない言葉に興味を抱いたからです。在籍期間こそ短かったものの、この会社で見聞きしたことはとても勉強になりました。毎週のように、大手メーカーに赴いたり、工場に赴いたり...。決して、ロジスティクス領域に強い会社では無かったのですが、コンサルティング会社としての基礎、姿勢、課題解決の思考を学ばせて頂いたように思います。 

 この頃、たまたま手にした福澤諭吉の「学問のススメ」に"独立の気力"という一節を見つけ、そりゃそうだな~と安易に思い独立を決心。その一節とは、「独立の気力ある者は国を思うこと深切にして、独立の気力なき者は不深切なること推して知るべきなり。(中略)独立の気力なき者は、必ず、人に頼る。頼る者は人を恐れ、恐れる者は人に諂(へつら)う。(中略)愛国の意がある者は、官私を問わず、先ずは、自己の独立を成し遂げるべし。余力あらば、他人の独立を助け成すべし。」というもの。翌日、辞表を出したとき、仕事の充ては何もないという、短絡的な思いつきの行動でした。

 その後、経営者を取り上げる番組の仕事をご紹介頂いたり、IT関連企業の会長を務められた方のオフィスから、ネットベンチャーの立ち上げの仕事をご紹介頂くことになります。当時、複数の会社の仕事を手がけていましたが、キーワードは、"ベンチャー"と"マーケティング"。秘密保持の関係上、社名こそ書けませんが、この頃、著名な企業の仕事を複数手掛けさせて頂いたことは、企業における"マーケティング"の重要性を認識する上で貴重な経験でした。この頃から、コンサルタントというよりも、"一介の営業マン"として歩もうと思い始めるようになりました。

 奏功するうちに、「ロジラボ通信」の運営を開始、08年春に法人化、同年12月、物流・ロジスティクス・SCM領域に特化したコンサルティング会社を設立しました。自社内で、「物流コンサル・現場コンサル」機能を有しているので、物流コンサル会社と解される要素はありますが、ロジラテジーにとっての主戦場はその部分ではないと考えていますし、部分最適化のご相談は、極力、お断りしています。自社で関わる事案、自社のコアバリューは、企業経営そのものであって、一般的な物流コンサルティング会社と混同されないように、業務の一部を代行する、あるいは、生産性調査を生業にする、はたまた、元請で入ってピン撥ねすることを忌み嫌っています。

 率直に申し上げると、ロジラテジーのキラーコンテンツは、何よりも、戦略。戦略ありきというのが全ての基本です。そして、業務レベルで申し上げれば、次の二つの点を手がけていきたいと考えています。第一に、荷主企業のSCM戦略構築(SCM・ロジスティクス改革)、次に、物流企業の経営戦略。これらを実現するための、財務戦略的アプローチ、マーケティング戦略的アプローチとロジスティクスコンサルティングの融合。掻い摘んだ説明で恐縮ですが、私のキャリアからお察し頂きたいのですが、企業の経営戦略を実現するための“財務戦略”と“マーケティング戦略”という二つのアプローチを重要視している点がコアコンピタンスなのです。将来的には、私なりの(物流業界ではあまり積極的に活用されていない)"金融"の視点、そして、“IT”により規模の経済性の視点を取りこみ、物流業界のエキスパートとともに、物流業界の“異端児”として勝負していきたいと考えています。

 また、ベンチャー経験を活かし、物流ビジネスプロデューサーとして、独自の価値観を創造していきたいと日々奔走しています。


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※2011年1月16日に加筆・修正。
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